『困ったら前に出ろ!』これは去る1月4日に70歳で逝去した星野仙一氏(元中日、投手、監督→阪神→楽天監督)の言葉である。
その教えをずっと守っていた。それはかっての弟子にも受け継がれた。
金本知憲監督の三年目の『執念』をスローガンに掲げた今年は優勝を期待されたが、当初四番に期待されていた韓国プロ野球から来たウィリン・ロサリオが、外角低めに悉く手を出して打撃が狂い、途中二軍落ちの後改善が見られたがすぐに低めのボール球に手を出して不本意に終わった。
結局、ベテランの福留孝介や糸井嘉男の力を借りなければならず、糸井は怪我に泣かされ、福留も打ったり打たなかったりで不安定であった。交流戦前に上本博紀がスライディングの際に左足靭帯損傷と言うのも痛かった。
定着してきたかと思った北條史也も守備の際にダイブして左肩亜脱臼など、痛い故障も多く、期待された大山、中谷、髙山が伸び悩んだのが響き、一番活躍したのが糸原健斗と、打撃が課題と言われていた梅野隆太郎のみであった。
これら若手の伸び悩みの原因だとされファンに叩かれまくったのがヘッドコーチ兼打撃コーチの片岡篤史だった。
当然バッシングをファンから受け、念仏みたいに「片岡辞めろ」の声がSNSから響いていた。
結局、一部ファンが金本監督に監督と片岡コーチへの罵声で一触即発になりかけた事もあり、チームは最下位に沈んだ。
甲子園での金本監督のファンへの挨拶は、片岡コーチを庇って来たが結局はフロントがファンのバッシングに耐えきれなくなり、辞任(解任)になってしまったのだろう。
その後の監督は様々な名前が上がったが、二軍監督として二軍を日本一にした実績がある矢野燿大が引き受けることになった。
矢野新監督曰く「やらなかった後悔はしたくない」と言う事と、プロ入り時は中日だった矢野新監督の師匠の星野仙一氏の「困ったら前に出ろ」と言う遺訓を守ったのである。
矢野燿大新監督の簡単なプロフィールは大阪桜ノ宮高から東北福祉大を経て中日ドラフト二位で入団した。ポジションは捕手。
しかし当時の中日の正捕手は中村武志であり、矢野氏の活躍の場は限られ、背番号も当初は2も、95年に入団した荒木雅博が付けるために、38番に変更された。しかし、野口茂樹のノーヒットノーランに貢献したりと地味には活躍していた。
当時の阪神は捕手候補に泣き、山田勝彦や様々な捕手がマスクを被っていた。
矢野氏はそんな中一番多く使われ、やがて野村克也氏が監督の際にメインに使われた。
三年間は最下位と結果は出なかったが、五年めで漸く優勝の原動力になった。
以降、岡田彰布が監督の時代は正捕手であり続け、10年から城島健司が加入した時に辞めようかと思った時に恩師星野氏から励ましを受け、引退後は勉強して来た。
やがて金本監督になった際にヘッドコーチとして経験を積み、二軍監督だった掛布雅之氏のポストが空いたために二軍監督としてチームを優勝乃至日本一にした。
もちろん二軍と一軍の都合は違えど言えども、二軍では機動力を使った野球を推し進めて来た。
打ち勝つ野球では甲子園では勝てないからである。
就任したての矢野新監督はやはり守備や走塁に重きを置くようで、ヘッドコーチに清水雅治氏を迎える、元中日→西武の選手・コーチでそれまでにパにおいて西武時代に松井稼、中島、片岡易、日本ハムコーチ時代に糸井嘉男、陽岱鋼、中田翔、ロッテコーチ時代に荻野貴、中村、加藤、楽天コーチ時代にオコエ、田中和基に走塁や守備などの重要性を説いたと言われている。
打ち勝つ野球では甲子園では勝てない。それは高校野球でもプロでも変わりはない。
お家騒動だの何だの言うファンは遮断して矢野新監督にはこれが甲子園での野球であると言うのを見せて欲しい。
まあ、三年は優勝はダメでもやがてそれを過ぎると確実に勝てるチームを作って欲しい。