年齢が50歳になっても大切にしているものがある。
それはいつまでも夢失わず、童心失わず、探究心失わずである。
難しいことなんてわからないしわからなくてもいい、知りすぎると人生面白くない。真実は決して人を幸せにはしない。
真実は時として人を不幸にさせて残酷な結末を見ることになるからである。
だから人として完璧は求めないし、完璧な人間などいないと断言する。
お互いに欠けたところを補うからこそ人間と言うものではないか?
夢や童心をなくした人間ほど老いるのは早い、無趣味は人生をつまらなくさせる。
現実に追われゆとりがなくなりつまらない人生になってしまうからである。
知りたいと言う気持ちを失えばそこで人間としての進歩がなくなる。
進歩がなければつまらない人間になってしまい永遠にワンパターンから抜け出せなくなる。
後は複雑に考えず、もっとシンプルに考える事が大切だと思う。
複雑に考えるのは余計に迷いが出る、もっとシンプルに考えればなんてことないことになる。
まあ、みんながみんなそう言う風になるのは難しいが、背負うもののなさが個人的にはあるのかもしれない。
背負うものが多いと色々な思惑が蠢き自由ではなくなる。
問題も起きるし、家族と言うのはみんな性格が違う。
血の繋がった他人と言うべきものか、まあ、俺は家庭も持ったことはないし結婚すらしてない残りの人生でも結婚は考えていない。
縛られると自由もなくなり大切なものすらも失いそうになる。夢と家庭の両立は難しいと思う親になればもっともっと知らなければならないことが多く、辛いことも背負わなければならない。
探究心もなくなり世の中の汚い部分までも覗いてしまえば童心なんてなくなる。
現実に追われると仕事にもよるが童心はかなり失われる。
つまらない大人になるのを拒否した子供みたいな大人と言うのが今の俺だと言っても過言ではない。
汚れた世界、腐った関係、信じたくない真実、こんなものを見たら夢なんて雲散霧消すると言える。
確かに「そんな人間痛い」と見る人もいるかもしれないが、そんな世間体など気にはしない。
今や伝説になってしまったF1チャンピオンであるアイルトン・セナ(1960-1994)も最後まで夢と飽くなき探究心とラジコンで遊ぶ童心を最後まで失わなかった。それがあったから日本で、とんねるずの『生ダラカート』に出たりもしたいい大人ならまずは出ない、ましてやワールドチャンピオンが出る番組ではない。
歴代のワールドチャンピオンで日本のバラエティに出てお遊びとは言えカートに興じたのはセナだけだった。
とんねるずとの半分遊び半分マジを楽しんでいた風に見える。個人的にセナの大ファンだった石橋貴明が、セナに「ヘルメットを下さい」と懇願し、「いいよ」と言ったあと石橋に贈られたが、それはセナの没後だったのは皮肉で、今では家宝みたいになっているのは容易に硬くない。
最後までチャンピオンで誇り高く誰よりも速く走ることを夢見て壮絶な最期になってしまったが、本人は悔やんではいないと思う。
好きなことをして不本意とはいえ壮絶な最期にはなったが、死に顔は穏やかであった。
短い人生を電光石火の如く駆け抜けたセナも20歳で結婚するも翌年離婚し34歳で亡くなるまで独身を通した。(恋人は二人いたが)
そのためにレースに全身全霊を尽くすために、アラン・プロストが「僕は家庭や趣味があるから90から98%の力でしかレースに挑めないがセナには背負うものがないので100%レースに挑んできたので脅威だった」と後日述べたのは本音であろう。
確かに背負う家族や自分の趣味があれば全身全霊とは行かない、死んだら家族が悲しむし、様々な所に波及するからである。
しかし背負うものがなければ全身全霊で挑めるまあ、セナの場合は姉ビビアーノの息子のブルーノ・セナ・ラリに波及してしまい、10年間ブルーノは母ビビアーノからレースから遠ざけられてしまったくらいだから。
やはりブランクは大きく、ブルーノはF1では全くパッとしなかったのは10年の歳月が叔父アイルトンが賞賛したブルーノの天賦の才を減殺してしまった感がある。
まあ、これからもブログで色々書くが、殆どが個人的趣味であったり好きなことしか書かない今回は読売巨人軍の呆れたFA簒奪劇については言及しないことにした。
埼玉西武から炭谷銀仁朗、広島東洋カープから丸佳浩、シアトル・マリナーズから元近鉄・楽天の岩隈久志までも獲得したのを見て相変わらず簒奪しないと気が済まないのかと言う本音だけは言わせて貰う。