しかしトホホな真実も存在する。
今を遡る事70年以上前は日本は戦争をしていた。
盧溝橋事件から始まる中国(当時中華民国)との泥沼な戦争、そしてそれらを制裁するためにアメリカが政策的な手段を取り『ABC包囲網』を引き日本に資源などを送らないように兵糧攻めのようなことをして挑発し、あの『真珠湾攻撃』で激しい『太平洋戦争』が勃発した。
言わば日本はアメリカの策にまんまと引っかかり、思わず戦争の引き金を引いてしまった。
開戦当初は快進撃が続き南方方面を日本はどんどんと制圧して行ったがそれはアメリカの計算済みであり様子見でもあった。
日本は大した戦力は持たないだろうと舐めていたら予想外に奮闘したのでこれはいかんとミッドウェイ海戦から本気を出し始める。
そして日本は起死回生とばかりにマリアナ沖で海戦を挑むが致命的大敗を喫した。
そしてフィリピンでもジリ貧の戦いになり、大敗し、徐々に南方から北に下がらざるを得なくなった。
サイパン島陥落でとうとう基地を作られてしまい、日本は毎日の様に空襲された事実は言うまでもない。
巨大で高高度を飛ぶ爆撃機B29には日本の戦闘機は全くかなわなかった。
いかなるベテランパイロットでも撃墜は容易ではなかった。
海軍航空隊にはあの有名な零戦しかなく、型が変わると共に性能は段々下がって行った。まだ52型はましだったが、52型丙になるとなんやかんやとゴテゴテ付けたために性能がガタ落ちになった。
一応海軍航空隊もその後継機の烈風などを制作してはいたが諸般の事情で一回は不採用になり、諦めきれない開発スタッフはエンジンを中島(現在の富士重工)のものから自社製の三菱のエンジンをつけて試験飛行したところ素晴らしい性能を発揮して海軍側が採用を決めた時には既に遅かった。
生産工場が空襲で破壊され生産がおぼつかないままに終戦を迎えた。
烈風以外では、零戦のアシストをすべく開発された局地戦闘機雷電や、水上戦闘機強風を陸上型にした紫電、更にそれに改造を加えた紫電21型(通称紫電改)などが生産されたが数が少なく配備されたのは松山の343空だけであった。
その中でも零戦と同じスタッフで設計し、高高度性能に重点が置かれた雷電は設計されたのは昭和14年(1939年)なのに初号機が製作されたのは昭和17年(1942年)、トラブル続きで一旦は生産中止かと思われたが他の戦闘機の開発が進まずに結局は昭和19年に採用された。
しかしエンジントラブルが多く、失速するとぶち落ちたり、着陸の際の失敗での殉職者も多発した難儀な機体であった。
爆撃機邀撃用に作られたので、戦闘機とやり合うと全くかなわなかった。
そしてさほどの成果も収められなかった。
期待の割りには性能はトホホな真実である。
視界も悪くパイロット達の評価もかなり悪かった。
実際は撃退どころかバタバタP51マスタングの餌食になったのが真実なのに知らない。
調べてみればトホホな真実なのに何を基準にして描いたのか⁉︎全くといっていい程に好い加減である。
このように調べてみればトホホな真実が浮かび上がることもあるのだ。